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サッカーフォーラム in 兵庫
第一回「世界のストライカーと語る、世界のサッカー」
第二回「ピッチから見た世界のサッカー」
第三回「世界のサッカー、子供たちに夢を」
第四回「世界のサッカー、頂点に立つのは?」
第五回「世界への架け橋、サッカー!」
第六回(最終回)「ようこそ世界のサッカー、市民みんなで盛り上げよう!」

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サッカーフォーラム in 兵庫
第六回(最終回)「ようこそ世界のサッカー、市民みんなで盛り上げよう!」
第六回「ようこそ世界のサッカー、市民みんなで盛り上げよう!」
日時:2002年4月14日(日) 
会場:神戸新聞松方ホール
主催:兵庫県サッカー協会、(社)神戸青年会議所、神戸新聞社
共催:デイリ―スポーツ社、サンテレビジョン、AM神戸
後援:兵庫県、兵庫県教育委員会、神戸市、神戸市教育委員会
協力:ヴィッセル神戸、FCJAPAN

6回シリーズ「サッカーフォーラム in 兵庫」の最終回。おなじみ賀川浩のほか、ゲストに98年ワールドカップで日本代表を指揮した岡田武史氏、ヴィッセル神戸の岡野雅行氏、城彰二氏、スポーツ経営学の長積仁氏、そして神戸青年会議所の理事長である中山広隆氏をお迎えして、サッカーや大会、そしてワールドカップ後の神戸の街について語っていただきました。


第1部
■賀川氏と岡田氏、意外なつながり
■日本サッカーの原点、神戸FC誕生
■転換期を迎えた神戸の地域スポーツ
第2部
■フランス大会予選・ジョホールバルの真実
■キャンプ地に望まれるものは?
■2002年大会の見所
■終わりに 〜「サッカーフォーラムin兵庫」宣言〜

 

第1部
■賀川氏と岡田氏、意外なつながり

岡田武史(以下、岡田):賀川さんは私の恩人なんですよ。
 中学生時代から僕は眼鏡をかけていたのですが、サッカーが好きで好きでたまらなくて、卒業と同時にドイツへ留学してプロになりたいと本気で考えていました。
 困り果てたオヤジは、ある人をツテに当時産経新聞の運動部長を務めていた賀川さんを連れてきました。どうやら賀川さんとオヤジは前もってツルんでいたらしく、「そんなひょろっとした身体で眼鏡をかけて、通用するわけがない。諦めなさい」と説得されてしまったんですね(笑)。それで私は日本の高校へ行きサッカーを続けました。賀川さんとは以来のおつきあいで、代表チームに入ると「へぇー、あの時の眼鏡の子が代表に入ったの!?」なんて驚かれたりもしましたね。

賀川浩(以下、賀川):すっかり立派になって…。眼鏡は当時と同じですけれど、言い出したら聞かない子だったようです(笑)。
 あの頃は身体もひょろっとしていて、これでドイツへ渡ったら潰されてしまってもったいないなと思い、もっと大きくなってからにしなさいと言いました。



■日本サッカーの原点、神戸FC誕生

賀川:1979年ごろ、日本協会の会長が「ワールドカップを日本へもってきたい」とおっしゃっていた時は、みんなまったくの夢物語と思っていましたが、まさか実現するとは!96年の5月末に日韓共催が決定して、その時はまだあと何年もあると思っていたのに気付けばあと47日。

岡田:フランス大会からの4年間、現場にいてその日その日に必死だったので、僕自身も本当にあっという間でした。

――そうですね。さて、神戸には日本初の法人格サッカークラブ「神戸フットボールクラブ(FC)」があります。賀川さん、設立の経緯についてお話しいただけますか。

賀川:神戸には明治20年頃から「神戸外人クラブ」というものがあり、私もそこのクラブと試合をしたりしていました。当時のスポーツというのは練習ばかりやって、ある種宗教のようでしたが、そこのサッカーは違いました。クラブハウスのバルコニーから外国人の紳士淑女たちがお茶を飲みながら観戦していて、試合後には私たちもお茶を呼ばれたりして。「ああ、こういうスポーツもあるのか。」と新しい楽しみ方を知り、神戸にもそんなものを作りたいなと思いました。
 それから、戦後弱くなった兵庫県サッカーを強化するために、まずは子どもたちの育成から始めようという話があり、そこで大人も交えて「誰でもどこでもいつでもボールを蹴れるクラブ」を作ったわけです。

――日本サッカーの原点は神戸にあると言えるかもしれませんね。

岡田:僕はずっと大阪にいたので、神戸FCと試合する機会はほとんどありませんでしたが、神戸のサッカーは本当にレベルが高かったですね。
 それに何と言っても御崎サッカー場(神戸市立中央球技場)。あそこは当時にしては珍しいしっかりした芝のグラウンドでした。僕の家の近く、長居で行われていた国際試合も全てそちらで開催されるようになり、よく路面電車に乗ってそこへ通いましたね。



■転換期を迎えた神戸の地域スポーツ

――地域とチームの結びつきというのは今後ますます大切になると思います。札幌にはコンサドーレ以前、プロスポーツがなかったわけですが、そこのところはいかがでしょう。

岡田:札幌というより、北海道には象徴となるものが何もありませんでした。
 当初、応援するのは若者だろうと思っていたのですが、実際は家族連れやお年よりがとても多かった。夫婦や親子を結びつける新たな話題を提供していると知り、嬉しかったですね。
本格的に地域に根ざすと、スポーツはみんなの気持ちを1つにするという力を発揮します。それがスポーツの醍醐味でしょう。

――国内外のスポーツクラブの現状はどうなのでしょうか。

長積仁(以下、長積):日本とアメリカを除いた多くの先進国では、クラブなど地域を基盤にスポーツが振興されています。
 日本がお手本にすべき欧州のクラブには、学校の施設が充実していないという背景がありますが、例えばドイツには8万のクラブがあり、全人口の3割、3人に1人という高い割合の人が地域クラブでスポーツをしています。
 
 日本のスポーツ振興は、現在転換期にあります。
 2000年以降の、企業チームの相次ぐ休廃部により、学校と企業というスポーツを支えていた両輪がバランスを失ってしまいました。そうして現在、地域を基盤とした「相互型地域スポーツクラブ」としてスポーツ振興が進められているところです。これまでの形では、行く行くは崩壊してしまいます。今望まれるのは、市民の手により創られる「市民主導型」のスポーツ振興です。

岡田:日本にスポーツが入ってきた時に「体育」と訳したことがそもそもの失敗。体育というのは「フィジカル・エデュケーション」、つまり教育です。教育は、全員が必ずしなければならないものですが、スポーツというのはやりたい人がやりたいように、自己判断と自己責任で楽しむものです。
 子どもたちが小さいうちから好きなスポーツをする。クラブの浸透により、日本でもようやくスポーツと体育(教育)の区別がつき始めたなという感じです。体育とは違う意味合いを持っていた神戸FCというのは、まさに原点ですね。

――ワールドカップ開催以後、神戸のスポーツはどう変わるのでしょうか。また、変わっていくべきなのでしょうか。

中山広隆(以下、中山):震災後、体育館や球技場、公園といったハード面の再整備がなされ、環境は整いました。現在はその施設利用のあり方が問われています。スポーツを育てる施設や環境づくりを子どもたちに残してやることが私たち大人の役割。
ですからワールドカップを「楽しかったね」で終わらせず、夢を語りながらボールを蹴れるような地域を作っていくことが大切です。

長積:長野オリンピック同様、今回のワールドカップでも大きな感動が生まれるでしょう。
 そこで生まれた人との繋がりや盛り上りを、地域の連携にどう結びつけるのか。国際都市として認知されてきた神戸をどうアピールするのか。また、ワールドカップ後、あの神戸ウイングスタジアムを社会資本としてどう生かすのか。今後はそれを考えていかねばなりません。

――これまでのワールドカップでは、日本は外から眺める立場でしたが、今度は逆に世界から見られる番。神戸はワールドカップをどう発信していけば良いでしょう。

ラモス:賀川:共通の話題で世界中に新しい輪が広がることが、サッカーという遊びの面白みです。先日サッカーを通じてドイツに新しい友人ができました。皆さんも、イングランドからフーリガンが来ることを心配するのではなく、サッカー好きの人間がやってくると考え、気軽に話し掛けて神戸の良さを伝えてほしいですね。輪はいくらでも広がります。神戸にはその発信基地になってほしい。

――岡田さんは日本代表として各国を回られていますが、どこか思い出の土地はありますか。

岡田:僕は南極大陸以外の全ての大陸、57カ国を回っているのですが、留学で長期滞在したドイツとイギリス、ブラジルはやはり特に印象に残っています。
 賀川さんがおっしゃったように、サッカーをしていると友達ができます。世界を回っているとトラブルに巻き込まれることも多いのですが、そんな時、サッカーを通じてできた友達に助けられたりしますね。

 宗教や価値観など世界には様々な違いがありますが、スポーツをやっている時の「自分のチームが勝ちたい」という心の純粋さはどこへ行っても同じです。
 ブラジルで休日、公園でサッカーをしようとボールを持っていくと、人々が集まってきて自然とチームができあがります。だからボールさえあればすぐにサッカーができ、友達ができるんです。


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