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サッカーフォーラム in 兵庫
第一回「世界のストライカーと語る、世界のサッカー」
第二回「ピッチから見た世界のサッカー」
第三回「世界のサッカー、子供たちに夢を」
第四回「世界のサッカー、頂点に立つのは?」
第五回「世界への架け橋、サッカー!」
第六回(最終回)「ようこそ世界のサッカー、市民みんなで盛り上げよう!」

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サッカーフォーラム in 兵庫
第三回「世界のサッカー、子供たちに夢を」
■子どもたちに伝えたいこと

――今日は「世界のサッカー・子供達に夢を」というテーマ。ラモスさんがサッカー教室で一番心がけていることは何ですか?

ラモス:サッカーを好きになってもらうことです。自分も子どもになって、同じレベルで話をします。2時間の教室で一気にうまくはなりませんので、基本だけ覚えるようにアドバイスします。ボールが1つあれば、壁があれば、練習はできるし、自分が努力すれば一気にうまくなります。
 
ぼくはリフティングもパスも下手で、上手な兄と比較されました。でもある時兄に、「できないんだったら庭に出て1人で練習すればいい。誰よりもうまくなればいい」と言われたんです。そこで目が覚めました。力加減を変えたり、カーブをかけたり、様々なボールを壁にぶつけて練習をした。2ヶ月くらいでみんなが驚くほど一気に上達し、それが嬉しくてまた練習しました。

賀川:ラモスはもともと負けず嫌いだから、1人で練習したんでしょう。
 サッカーは足でするもの。普段足は立っているだけだから、本気で足を使おうと思うなら、足でボールを止めようとするのなら、その上達は練習の回数に比例しますよね。体さえいためなければ、どんどん上手になるんです。これは世界中の名選手が言っていることです。イングランドのケビン・キーガンも、壁にボールを当てて遊んでうまくなった、と言っていましたね。

ラモス:練習をした分だけうまくなるのは、子供に限ったことではありません。
ヴェルディ時代、馬場さんというマッサージトレーナーがいました。彼はサッカーがものすごく好きなのだけれど、下手だった。でも彼は仕事が終わるとクラブの選手のプレーを見て真似をし、壁にボールをぶつけて1人で毎日練習をしていました。

あまりにも下手なので、こいつは何を考えているんだと思って僕は見ていたのですが…。ところが1年半後、彼はカズや武田らJリーグのトップ選手のミニゲームに入れても恥ずかしくないほどになっていました。彼を見ていて思ったのは、本気で努力すれば、どんな人でも本当にうまくなるという事。天才にはならないけれど、いい選手にはなれる。

小野(伸二)は高校時代から本当にうまいと思っていたけれど、中田(英寿)はそうでもなかったですね。でも頑張り屋で努力家の彼は毎年毎年成長した。今の彼があるのは昔の努力があったから。中村(俊輔)も名波(浩)も森島(寛晃)も初めて見た時に「すごいな」と思ったけれど、中田は全然そうじゃなかった。普通の選手だった。
 だから本当に努力次第。本気で努力すれば、誰でもうまくなれるんです。

――ラモス選手の特徴、日本選手にまねの出来ないプレーとは何でしょう。

賀川:読売のコーチによると、ラモスはグラウンド全体が見えているそうです。ボールに触ることを苦にしないから、色んなことが見える。ボールを自分のものにすることが、サッカーでは一番大事です。そういう動作は、やればやるほどうまくなるし、ボールを思いのままにできると、サッカーはもう次々とうまくなりますよ。
 西ドイツのマテウスという選手は、27〜28歳になってから左キックが上手になった。読売のトレーナもそうですが、年を取ってからでも練習すればやはり効果があるわけです。まして若いうちは、やっただけうまくなる。

ラモス:サッカーは簡単。誰でもできます。難しくしているのは、サッカー選手だけ。Jリーグなどをみていると、もっとシンプルにやればいいのに、と思いますよ。

賀川:その通りです。一番簡単な基本をしっかりやればいいわけです。

――さて。根性の男、魂を持つ男、サッカーの伝道師は、現役を引退してもサッカー生活は終わっていませんね。ラモスさんの、今後の目標は何ですか。

ラモス:ラモスセンターを作ることです。色んな子どもたちにサッカーの楽しさ厳しさ、魅力を教えたい。いい選手、いい青年がそこで育ってくれること、それが一番の夢です。
 皆さんから、「ラモスさんの夢は何ですか」とよく聞かれますが、僕の夢はほとんど神様が叶えてくれた。叶えてもらえなかったのはただ1つ、ワールドカップに行くことだけ。

――日本代表、Jリーグの監督というのはどうですか?

ラモス:いつかやりたいですが、それは夢ではありません。今の、近い将来の目標は、選手兼監督をつとめている沖縄かりゆしFCをJFL、Jリーグに連れて行くことですね。



■選手が審判を育てる

――ここでもう1人のゲスト、兵庫県サッカー協会理事長の長岡康規さんをお迎えします。長岡氏は元国際審判員でしたので、ラモス選手とは、お互い若い頃ピッチ上で審判と選手として活躍していた間柄です。ラモス選手について、何か印象に残っているプレーはありますか。

長岡:それはもうたくさんありますよ。
ラモス選手がいる読売クラブの試合の審判をするのは、嫌で嫌で仕方無かった。試合会場につくとお腹をこわしてしまう、それくらい嫌でしたね(笑)。
ラモス選手は、ぬるま湯の日本にプロ意識を持ち込んだ方でしょう。体を張って試合をするものだから、試合中は両チームのあちこちに火花が散る。審判にとっては大変なチームでしたよ。おまけに私が審判をしていると読売クラブが結構負けて、それがまたプレッシャーでした(笑)。
 
ラモス:僕らがなかなか勝てなかった原因は長岡さんだったんだ!やっと理由が分かりました。
本当に昔はよくイジメられましたからね(笑)。

長岡:しかし真面目な話、ラモス選手は大きなものを日本サッカーにもたらしてくれました。
先輩が国際審判員へのテスト試合に臨んだ時、ラモス選手に注意を与えたんです。するとラモス選手が素直に頭を下げた。ラモス選手を納得させる審判ができたのですから、それだけで彼はテストに合格ですよ。そういう意味でも、ラモス選手に育てられた審判は多いと思いますよ。

ラモス:なんだ長岡さん、いい人じゃないですか(笑)。僕も実は結構役に立っていたんですね



■ワールドカップに向けて

――最後に。ウィングスタジアムで3試合行なわれる予定ですが、準備体制はどうでしょう。

長岡:スタジアムが完成しました。いいスタジアムですよ。陸上のトラックがないので、選手が目と鼻の先に見えます。

ラモス:選手にとってもプレーしやすいですね。サポーターが近くにいるというのは、一緒に戦っている感じがします。一度プレーしてみたいです。

――最後にもう1つ。大会を成功に導くためにはどうしたらよいでしょうか。

長岡:人の輪を広げること、サッカーにこれまで興味のなかった人にも輪を広げていくことです。大会の成功は、神戸での3試合が済めばいいという訳ではなく、大会後の取り組みも重要です。今後にどう生かしていくかです。子供たちが楽しくサッカーできる町にすることが我々の目標です。

ラモス:ベッカムら、世界の一流選手のプレーを目の前で見られるというのは、すごいことですよ。一生心に残ることでしょう。


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■ラモス瑠偉  サッカー選手
1957年、ブラジルはリオ・デ・ジャネイロに生まれる。
77年、読売クラブの助っ人として来日。以後日本サッカーリーグ優勝5回、天皇杯優勝3回、日本サッカーリーグMVP獲得など、華やかな活躍を続けた。読売クラブの後身、ヴェルディ川崎で4年間プレイした後、一度京都パープルサンガへ渡り、再び川崎へ。89年、日本国に帰化し、翌年から5年間、日本代表として活躍する。93年のJリーグ開幕、ドーハの悲劇を経験したのち、98年に柏レイソル戦でプロ選手生活にピリオドを打った。現在は、沖縄かりゆしFCでテクニカルディレクター兼選手を務める。


■長岡康規  兵庫県サッカー協会理事長
1948年生まれ。
1967年、兵庫県神戸高等学校でセンターハーフ、主将として活躍し、全国高校選手権でチームをベスト4に導く。日本サッカーリーグの終わりとともに引退し、76年から1級審判員、84年からは国際審判員として日本の審判界を率いてきた。92年よりアジアサッカー連盟審判インストラクター・インスペクターとなり、96年より99年まで、Jリーグマッチコミッショナーを務めた。98年に兵庫県サッカー協会理事長に就任し、現在に至る。

■賀川 浩 スポーツライター
1924年、神戸市に生まれる。神戸一中、神戸経済大(現・神戸大)大阪クラブなどでサッカー選手。全国大会優勝、東西対抗出場、天皇杯準優勝などの経験をもつ。1952年からスポーツ記者、1975年から10年間のサンケイスポーツ編集局長(大阪)などを経て現在フリーランスとして、現役最年長記者。
1963年の兵庫サッカー友の会、1970年の社団法人・神戸フットボールクラブの創設メンバー。ワールドカップの取材8回、ヨーロッパ選手権5回、南米選手権1回。1974年から、サッカーマガジン誌上で大会ごとに「ワールドカップの旅」を連載、さらに同誌では2002年の開催前に「マイ・フットボール・クロニクル」として日本の歩みの連載を執筆した。
著者として『釜本邦茂ストライカーの戦術と技術』、監修として「ブライアン・グランヴィルのワールドカップストーリー」(新紀元社・2002年)、その他『サッカー日本代表 世界への挑戦』(新紀元社・2002年)にも執筆している。