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サッカーフォーラム in 兵庫
第一回「世界のストライカーと語る、世界のサッカー」
第二回「ピッチから見た世界のサッカー」
第三回「世界のサッカー、子供たちに夢を」
第四回「世界のサッカー、頂点に立つのは?」
第五回「世界への架け橋、サッカー!」
第六回(最終回)「ようこそ世界のサッカー、市民みんなで盛り上げよう!」

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サッカーフォーラム in 兵庫
第三回「世界のサッカー、子供たちに夢を」
第三回「世界のサッカー、子供たちに夢を 〜ラモスのサッカー哲学〜」
日時:2001年10月23日(火)
会場:日高町文化体育館
主催:2002年サッカーワールドカップキャンプ地但馬・日高町委員会、兵庫県サッカー協会、神戸新聞社
共催:神戸青年会議所、ディリ―スポーツ社、サンテレビジョン、AM神戸、城崎郡体育協会、日高町体育協会、スポーツクラブ21日高
後援:兵庫県、兵庫県教育委員会、日高町、日高町教育委員会、神戸市、神戸市教育委員会、日高町区長会、日高町観光協会
協力:ヴィッセル神戸、FCJAPAN

ワールドカップの公認キャンプ地である日高町で、ラモス瑠偉氏と、兵庫県サッカー協会理事長の長岡康規氏をゲストに、子供たちに託すサッカーの夢を、熱く、熱く語っていただきました。


■ワールドカップ、そして日本代表
■サッカー大国ブラジルのワールドカップ
■サッカー選手・ラモス瑠偉
■子どもたちに伝えたいこと
■選手が審判を育てる
■ワールドカップに向けて

 

■ワールドカップ、そして日本代表

――ワールドカップといえば、オリンピックをもしのぐビッグイベントです。前回のフランス大会の視聴者は世界中でのべ400億人。どうしてここまで大きな大会になったのでしょうか。

賀川浩(以下、賀川):テレビの台数が増えれば、見る人も増える。それだけですよ。でも、日本では98年に「BSで全試合放送する」と言っていましたが、今ごろか、という感じですよね。中国では1986年のメキシコ大会の時すでに全試合放送していました。メキシコとは時差がありましたから、中国政府が「夜中に熱狂しすぎず、きちんと睡眠をとってから職場に来い」と御触れを出したほどでしたね。

ラモス瑠偉(以下、ラモス):そう。すごい熱狂だったのを覚えています。

――さて、来年の本大会で日本代表はどのような活躍を見せてくれるでしょうか。

ラモス:僕は、日本代表にすごく期待してますよ。監督の望むこと、戦術だけでなく全てのことを選手たちが理解し、1つになって戦えば、いい結果を残すと思います。1次リーグ突破などではなく、ベスト8ぐらいまで行ってほしいですね。その力があると思います。
 監督にも、日本代表のために頑張ってもらいたい。地元だし、サポーターもたくさん見に来てくれますし、是非2〜3試合は勝ってほしいです。

賀川: 賀川:今の力、サッカーの環境から見て、ベスト8まで進んでもおかしくないですよね。

ラモス:もちろんグループ分けにもよりますけれど、例えばドイツやアルゼンチンが同組に入っても、全員が持てる力を出してくれれば勝てると思いますよ。サポーターの力は大きく、不思議なエネルギーがありますから。どこまで自信、勇気を持ってやるかが問題です。



■サッカー大国ブラジルのワールドカップ

――ブラジルの人たちは、ワールドカップをどのように捉えているのでしょう。

ラモス:ブラジルがワールドカップに出られないなんて事は考えられない。私たちがただもうじーっと4年間待っている大会です。ほとんどの人が見ていますからね。国民は、プレッシャーを与えると共に、パワーも与えています。生活の一部ですから、お祭りではありませんね。

賀川:今年はどういうわけか苦戦していますが、それでもやはり、我々も長年見てきて、ブラジルの出ないワールドカップなんて想像できないですよ。

ラモス:どこの国の人でも、ブラジルが来ないとワールドカップがしらけちゃうと思ってるんじゃないかな。来てほしくないと思っている国があるとしたら、アルゼンチンくらいでしょう(笑)。すごく仲が悪いので、ブラジルだけには絶対優勝させないぞ、と言う気持ちをみんな持ってる。それに、ブラジルのいないワールドカップは色んな意味でマイナスですよね。今苦しんでいますが、残り2試合、自分達の力で勝っていきますよ。

賀川:ブラジルは、南米選手権の勝ち負けより、ワールドカップで勝たなきゃ意味がない。

――1970年のメキシコ大会の時、ラモスさんは13歳。ブラジルが優勝した時のことは覚えてらっしゃいますか。

ラモス:全ての試合が頭に残っています。ペレ、リベリーノ、カルロス・アルベルト…。すごい時代でしたからね。あの時から、早くサッカー選手になってワールドカップに出たいという気持ちが強くなりました。そこから僕は真剣に、母を助けるためにもプロの道を考え始めました。
 あの頃は、試合が終わるとすぐに、今見た選手のフェイント、カーブのかけ方などを真似しました。見て、盗んで、自分のものにしたくて、ひたすら練習、成功するまで努力しました。
 
今の子どもたちは恵まれてます。テレビでもたくさん見られる。でも、全部をみる必要はないです。自分の好きな選手だけ見て、自分のものにする。それは監督やコーチに教わるよりもずっと効果がありますよ。うまいとか、すごいで終わらないで、「人間なんだからできる、真似したい」という気持ちを持つ事が大事ですよ。



■サッカー選手・ラモス瑠偉

――ラモスさんがサッカーを始めたのはいつ頃ですか。

ラモス:6歳くらいですね。父も兄もサッカーがうまく、近所の子どもたちも皆サッカーをしていたので自然の成り行きでしょう。そういう意味で、環境に恵まれました。
小学生までは練習をみっちりするのではなく、サッカーを好きでいればいい。基本技術や戦術は中学生から。まずは、トラップ、パス、シュート。この3つができれば絶対にサッカーは楽しくなる。ボールのもらい方、扱い方はその後。基本ができなければ、それ以上のことはできません。

――ラモスさんが日本に来る決意をしたのはなぜですか。

ラモス:18歳でブラジルのプロになり、その後読売クラブから外国人助っ人の誘いがかかりました。家族を楽にさせようと、ちょっとお金目当てで日本サッカーの状況も知らずに来ました(笑)。

賀川:日本サッカーの流れを少しお話しますと−。
64年の東京五輪の後、企業チームの日本リーグができ、その一握りのチームを鍛えてメキシコ五輪の銅メダルにつなげました。それで一時人気が上がったのですが、当時、人気も実力もあった釜本が病気をしたためにワールドカップ予選もオリンピック予選も勝てなくなり、停滞してしまいました。サッカーは国際比較のスポーツですから、代表が世界で勝てなければ日本リーグの人気も落ちる。一握りのチームを鍛えて歴史を作った代償ですね。70年代はその停滞ムードを払いきれずに引きずっていました。ラモスがやって来たのはそんな頃です。

ラモス:あの頃は芝生もほとんどなく、試合の観客も関係者ばかりが100人ほどで、ブラジルでいう草サッカーの世界。当時は、Jリーグができるなんて思いもしませんでした。
 賀川さんもおっしゃっていましたが、代表が強くなれば人気が上がる。でも当時の代表は、相手がどこの国であっても余裕がなかった。僕自身も代表には興味がなく、とにかくクラブを一部に上げ、ブラジルに帰ることしか考えていませんでした。

――それがなぜ、こんなに長く滞在することになったのでしょう。

ラモス:色んなトラブルがあり、それでつい「やってやろう」と。1年間出場停止にもなりましたしね(笑)。それが一番辛かったけれど、「サッカー協会のおじさんたちに認められるまでは帰らない」と決めました。クラブが一部昇格を果たした時、僕は得点王など4つのタイトルを取ったのですが、一気に4つを取ったのは、ぼくと釜本さんだけなんですよ。
 
――ラモスさんは逆境をバネにしますね。

ラモス:そうですね。見返してやるぞと、いい意味での復讐をするのが好きです。出場停止になった時、サッカー協会に謝りに行けば処分が軽減すると言われました。それで難しい日本語の文章を覚え、なけなしの金をはたいて手土産まで持って一生懸命謝ったけれど、何も変わらなかった。その時、「オレの金はどこに行った?」と思い、いつか絶対認めてもらうぞと決めました。協会のおじさんのために使った1万円、今でも悔しくて仕方ないですよ(笑)。でも、あれが本当にバネになりました。

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